Saturday, April 21, 2007

The issue of Utro village

There are pros and cons about Utro village, some says it is a legacy of Japanese colonialism, others say that it is an internal problems of zainichi Koreans.
Here are articles that discuss the issue in favor of Utro villagers.
Ethnic Koreans in Japan's Utoro village wait for Seoul's help/hankyore
Kyoto's Korea Town Fights for Survival
What's UTORO ? /NEW YORK TIMES -1993.3.1

I have found the records of judgement at the local court, appellate court, and supreme court on the site that supports Utro villagers.

京都地裁(1998.7.17)魚拓
大阪高裁
最高裁

Reading them, I think there are several important facts that are missing in the articles above that support Utro villagers. And as is often the case, there are serious distortions.



The summary of the facts
Japanese government decided to build a military airport, the local Kyoto government designed the airport and executed the plan and civilian construction companies worked as subcontractors. Many Koreans worked there, their families living in bunkhouse huts. On the whole it is not known how those Koreans came there. There are many Koreans who moved there after the war.
(One defendant was engaged in the construction trade, and moved to Utro, another was working as a building constructor after graduating from junior high school at Kobe, and moved to Utro.*2)
The landowner was Japan aviation industry Co., Ltd.
The plan was abolished because the war ended, Korean workers has kept on living there, reforming huts or constructing new houses.*1
Japan aviation industry Co., Ltd was merged into Nissan factory.

Nissan factory was planning to evict the residents but realizing it was difficult, counseling Uji city, it offered the sale of the land to Kyo(許昌九) a mayor of Utoro Residents' Association. Kyo consulted Kou(河炳旭)*3,the directer of Kyoto Korean Residents Association in Japan for insufficient funds, and Kou set up the company and the company financed Kyo, and registered the land by the contract that Kyo sold the land to Kou.*4

The residents at the time agreed once that they would proceed with the contract.*5


Judgment; The defendant should evict the land to the plaintiff.*6

(The plaintiff is the company Kou set up;western Japan production Ltd.有限会社西日本殖産)

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Some argue that since Koreans could have returned to Korea,(there were ships coming from Korea with Japanese returnees on them, so most of Koreans returned by the ships ), and since they could have naturalized,(many naturalized) , but they didn't ,and other ethnic Koreans and zainich Koreans own/rent the land/house legally there is no need to help those Koreans.
In view of law, they are illegal occupants, but I for one think there is nothing wrong with helping the villagers of Utro.
However don't distort the facts to use Koreans -as-victims- tactics. Utro people and those who help them should realize that the very tactics they are using is the one many Japanese are getting sick and tired of. More than that, as some ethnic Koreans in Japan say, it may be that it is damaging Korean dignity.
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*1

「ウトロ地区」の沿革 以下の事実は、争いがない事実の他、文中に記載の証拠及び弁論の全主旨により認定できる。

昭和一三年末、通信省が全国各地に飛行場と航空乗員養成所を建設する構想を発表した。昭和一四年、その構想の具体化として、国際工業株式会社(昭和一六年、日本航空工業株式会社と合併して、日本國際航空工業株式会社になった。)が設立され、京都府内においては、当時の久世郡佐山・御牧両村近辺が「京都飛行場」の用地と定められ、通信相航空局飛行場(三〇万坪)、同乗員養成所(二万坪)、國際工業飛行場(二二万九〇〇〇坪)、同予備地(二万2000坪)、同工場(四〇万坪)の各施設の建設が計画された。これらの施設の設計・施工は京都府が請け負い、大倉土木等の建設会社が下請として工事を請け負った。右工事には多数の朝鮮人労働者が従事したが、これらの者とその家族はウトロ地区の飯場小屋に住居していた。京都飛行場の建設に従事した朝鮮人がどのような経緯で渡航してきたのかについては、全体として明らかではない。
ウトロ地区の土地所有権は、昭和一五年六月二九日に北川半兵衛から日本國際航空工業株式会社に譲渡された(乙一)。
昭和二〇年の終戦に伴い、右計画は廃止され、右朝鮮人労働者は、引き続きウトロ地区に居住し、飯場小屋を改修したり、家屋を新築したりして現在に至っている。また、戦後、他から移り住んできた韓国・朝鮮人も多数存する。現在、同地区には、約八〇世帯、約四〇〇人の韓国・朝鮮人が居住し、民族学校や自治会が組織されている。
日本國際航空工業株式会社は、昭和二一年二月二七日、日國工業株式会社(以下「日国工業」という。)に商号変更され、昭和三七年八月一日、日産車体工機株式会社(「日産車体工機」という。)に吸収合併された。同社は、昭和四六年六月一日、日産車体株式会社(以下「日産車体」という。)に商号変更された(乙一)。

*2

前記1(九)及び(一〇)の認定事実のとおり、被告(中略 青ひょん)は、大正六年一二月九日、大韓民国慶尚南道で出生し、昭和初期に来日し、建築業を営んでいたが、昭和三七年六月ころからウトロ地区に転居したものであり、被告(中略 青ひょん)は、昭和二一年二月一〇日、香川県で出生し、神戸市内の中学校を卒業後、建築関係の仕事をし、昭和五一年六月三〇日にウトロ地区に転居したものであるから、右被告らに対し登記簿謄本の調査等による権利関係の確認を求めることが酷であるといえるような特段の事情は認められない。

被告鄭○○の父鄭○○は、その来日の時期や理由は不明であるが、昭和二五年六月一日、本件一1(三)土地上のバラックをペ某から譲り受けて、居住し、昭和三七年三月三一日、本件一1(一)土地上にあるバラックを広瀬某から譲り受けて、そこに転居し


*3
河炳旭

*4

その後、許昌九は、河炳旭に対し、右手付金相当額の融資を依頼して、昭和六二年二月から三月にかけて五〇〇〇万円の融資を受け、さらに、「日産車体に残代金を支払い、土地を買い取ったうえで、住民に分譲したいけれども、残代金の資金を集められない。」と言って、残代金の融資方を相談した。そこで、河炳旭は、信用組合大阪商銀(以下「大阪商銀」という。)と交渉したところ、(1)貸付先として法人を設立すること、(2)河炳旭が連帯保証することを条件に融資の承諾を得た。
右条件を受けて、河炳旭は、許昌九と相談のうえ、資本金一〇〇万円を出資して、昭和六二年四月三〇日に原告を設立し、河炳旭の養父である吉田重光が代表取締役に就任した(昭和六三年九月一四日に辞任。)
そして、許昌九は、原告との間で、昭和六二年五月九日、ウトロ地区の土地を代金四億四五〇〇万円で売り渡す旨の契約を締結した(甲六)。
大阪商銀は、原告に対し、ウトロ地区の土地に極度額五億円とする根抵当権を設定した。日産車体は、原告から残代金を受領し、許昌九の指示に基づき、中間省略により原告に対する土地所有権移転登記手続を行った(甲一)。
以上の事実によれば、原告は、許昌九から売買によりウトロ地区の土地の所有権を取得したことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない


*5
このまま土地を買いましょうと話が一致して交渉や手続をするため左の様に代表者も選出しました。会社では特にご詮議の上私たちに売って下さる様おはからい下さいます様要請いたします。」と記載されており、ウトロ住民が当時の日産車体工機から土地を買い取ることによって土地問題を解決しようとしていたことは明らかである。このように、ウトロ地区の土地の所有権者が日国工業ないし日産車体工機であることは、ウトロ住民の共通認識であったと認められるべきであり、しかも、住民の代表者が土地の売却を要望するなど、自己が所有者であることと矛盾する行動に出たものということができる


*6
被告鄭○○は、原告に対し、別紙物件目録○○記載の建物を収去して、同目録○○記載の土地を明け渡せ。


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[ウトロってなに?
ウトロ問題 朝鮮人同士の土地争いも日本の責任

◆住民たちはどのようにしてウトロへ来たのか

 ウトロを強制徴用と関係付ける見方が多い。日本政府による徴用令により1941年から始まった韓国人強制労働の犠牲者、またはその子孫だというのだ。ウトロ地区の形成は、戦時中に軍の飛行場建設労働者たちが不毛の地だったこの地域に仮住まいを始めたことがきっかけだった。飛行場の建設が始まったのは1941年。こうして強制徴用とウトロを関連付ける先入観が生じた。

 しかし、この地で働いていた韓国人労働者1300人は、当時の徴用令により連れて来られたわけではない。ウトロ国際対策会議ホームページには「いくつかの誤解について明らかにする。(ウトロ地区の韓国人労働者たちは)銃剣による直接の武力により移住したわけではなかったとしても、故郷で生活ができなくなった植民地の国民が、経済的問題などさまざまな理由により、自らの思いとは関係なく植民地宗主国へと移住したケース」と説明している。

東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員記事入力 : 2007/09/21

韓国の国務総理傘下「日帝強占下での強制動員被害者の真相究明委員会」も昨年末の報告書で、「強制徴用者ではなく、日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明らかにした。1930年代末、さまざまな理由で植民地朝鮮の経済的貧困を避けるために日本に渡った人たちだったということだ。

◆ウトロ地区問題はなぜ起こったのか

 ウトロ地区が国有地だったなら早期に解決していたという意見もある。国有地ならば、どのような形であれ長期間居住していれば住民に居住権を認めるケースが多かったからだ。しかし、ウトロは名目上軍の飛行場建設を引き受けた日本国際航空工業(国営企業)の所有地だった。戦後に軍の飛行場建設が中断した後も、ウトロ地区は企業所有のままだった。

 その後ウトロ地区は多くの曲折を経た。戦後、軍需企業からバスやトラックを製造する自動車会社へと変わった日本国際航空工業は1962年に日産車体と合併し、ウトロ地区も日産の所有となった。日産車体は、韓国でも自動車を販売している日産自動車系列だ。

 その後、ウトロ地区は個人所有を経て1987年、西日本殖産という不動産会社に転売され今日に至っている。現在、ウトロ地区の住民と土地売却交渉を行っているのは西日本殖産だ。

 しかし、この過程で恥ずべきことが起こった。日産車体からウトロ地区の土地を買い取って西日本殖産に転売した個人とは、ウトロに住む在日韓国人、 A氏だったのだ。売却金は3億円。A氏に資金を融資したのも在日韓国人団体である在日本大韓民国民団(民団)」の幹部B氏であり、そのB氏がウトロ地区を買い取るために急きょ設立したのが西日本殖産だった。A氏は日産からウトロ地区の土地を買い入れた直後、「土地を4億円で買い取った」と主張し、西日本殖産(B氏)から4億4500万円を受け取り転売した。このように同胞をだまして巨額を手にしたA氏は夜逃げし、B氏もまた西日本殖産を1988年に日本の企業に売却、ウトロから手を引いた。当時B氏がいくらで西日本殖産(ウトロ地区)を売ったのかは明らかではない。

東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員

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